第一話「炎の中の窃盗犯」
1.
運動ができるわけでもなければ、勉学も成績は中の下から中の上を行ったり来たり。特定の趣味に打ち込むわけでもなく、特別なにか一芸に秀でているわけでもない。僕、小林陸はつまりはそんな人間だった。
ありきたりと言えばありきたり。平凡と言えば平凡な男子高校生。ちょっと探せばいくらでも見つかるような僕だけど、それでも人とは少し違う点というのもあるもので――ここ三ヶ月の間、僕は学校帰りに「ある場所」に寄るのが日課になっていた。
学校の正門から左手に広がる、長い長い上り坂。その先にある、一軒の時代がかった西洋風豪邸。それが、僕の目的地だ。
特別というからにはもちろん僕の家じゃない。そもそも逆方向だ。一応、妹と揃って中高一貫に通わせてもらえるくらいには裕福なはずだけど、ここまで豪華でもない。
ついでに言うなら図書館でも塾でもない。じゃあ親戚の家? 冗談じゃない。他のところがどうかは知らないが、我が家で親族にあんな人間がいたら、一族の恥として即・絶縁だ。アンタッチャブル。厳格な接触禁止令が敷かれ、僕はここには来られない。
一言で表すなら、バイト先というのが一番しっくりくるかもしれない。その表現もまた少しずれているのだけれども。
家主から譲り受けた合鍵を使い、無駄にデカい玄関の両開き戸から家の中へ。今更「お邪魔します」の挨拶は必要ないし、ご丁寧に言う義理もない。
タイル貼りの土間で靴を脱ぐ。スリッパくらい用意してくれてもいいと思うのだけど、あの人にそんな殊勝なことを期待するだけ無駄だ。そのまま長い廊下を突き進み、階段を昇ってさらにその奥の最も大きい一室の前で立ち止まった。ここに至るまでの道のりも長いが、本当に大変なのはこの次だ。
「……」
軽く深呼吸。然る後にこれまた観音開きの扉の片方に備え付けられたノブを握り――扉の影に隠れるようにしながら、一息に引き開ける。
直後の出来事だった。
ズサササササササササササッ! という擬音でも聞こえてきそうな勢いで、堆しと詰まれた本が雪崩となって室外へ飛び出してきた。
辺りに舞う埃を吸ってむせたり、目を傷つけない様に呼吸を極めて緩慢にし、さらには目を極限まで細めた僕の姿はまるでちょっと苦し気なお地蔵さん。三ヶ月の間何度も同じ光景を見てきただけある。対処は完璧だ。さすがは僕。
とは言え埃が晴れるのにはさほど時間を要さない。三十秒もすればすぐに凡夫へと還俗することと相成るのだが、しかしこれでは終わらない。僕はまだ変身を二回残している。
次に取り掛かるべき作業はこの大量の本の撤去だ。辞書のように分厚い本から文庫本、果てはブロック本と形容されるあれやそれや大小様々な本を積み上げては、馬鹿みたいに広い廊下の脇へと運ぶ。その姿、さながら土木作業員。
黙々と作業を続けること実に一分間、ついに部屋への侵攻を妨げていた堤防は消え、なんということでしょう、広々とした出入口が露わになったではありませんか。二週間みないだけでこの有様は酷い。左右の安全を確認しながら突き進む。今回は本の柱による洗礼は無さそうだ。
部屋の中央では、散らばった本が小さな山を作っていた。
いや、それだけじゃない。
一見すればただの本の山だが、その頂上からにょっきり生えたものが一つ。
右手だ。
白く、ほっそりとした女性の右手が、サムズアップしながら露出している。
その腕の持ち主を絞め殺してやりたい衝動を抑えつつ、本の山を切り崩す。なんとかうなじ辺りを掘り当てるころには一切の容赦が心から消え失せていた。むんずと掴み、全身を引っこ抜く。
引っ張り出したそいつの顔を睨めば、呆れたことにこの期に及んで寝ていた。
予想通り女だ。二十かそこらと言った歳頃で、お洒落というよりはほったらかした結果伸びたというような茶髪に、だらしなく着崩したジャージと、そこから覗くいかにも不健康そうな、肉付きの悪い肩や二の腕。下着をつけた胸がまろびでているが哀しいほどに起伏に乏しい。顔だけは整っている部類のはずだが、これでもかと主張する自堕落さは色気など一切感じさせない。というか肋骨浮いてるぞちゃんと食べてるのか。
そのままパッと手を放すと、彼女は力尽きた様に倒れ込み、見事に鼻っ柱を床にぶつけた。「うぎゃっ!」と短い悲鳴。幾分か爽快な気分になる僕。
鼻を抑えながら恨めし気に上体を起こす相手に、僕はいつものように挨拶を投げかける。
「おはようございます、明智さん。もう夕方ですけど」
「……ん。おはよう小林少年。しかし次からはもう少し人道的に起こしてくれたまえよ」
辺りに散らばった中でも特別分厚くて重そうな本を投げつけてやろうかと思った。京極アタック。こうかはばつぐんだ。
「いやはや。いつもすまないねぇ」
本の大鉱脈から発掘された後、件の女性はシャワー上がりの体をシャツ一枚に包み、コーヒーのカップを傾けながらカラカラと笑いかけてきた。当然ながらコーヒーは僕が淹れた。
「……すまないと思うなら少しは自分のことは自分でやろうとする努力くらいしてください」
彼女は明智都。ここの家主で、僕にとっての雇用主みたいな存在でもある。
怠惰。厚顔無恥。社会生活不適合者。色々評価のしようはあるが、僕が一単語で彼女を表す場合、それは駄目人間の四文字に集約される。
まずもって彼女は無職だ。そして現在職業訓練学校に通ってるわけでもなければ就職をしようとしているわけでもない。正真正銘ノット・イン・エデュケイション・エンプロイメントオアトレーニング。完全無欠、文句のつけようがないニートだ。本人は絶対職業欄に無職って書かないけど。
そんな彼女がこんな豪邸に住んでられるのはご両親が遺したとかいう莫大な財産のおかげという話だ。この家にひしめく大量の本はその遺産のほんの一部の成れの果てだというのだから空恐ろしい。流石に使用人の類は雇っている暇はなかったそうだけど。
その結末が、これ。僕は溜息を吐きながら、手元に視線を落とす。
飛び込んでくるのは三角形に切った食パンと、新鮮な葉野菜、トマト、あとは冷蔵庫に入れておいた燻製肉。
薄くバターを塗ったパンに具材を挟んで用事で刺し止めればサンドウィッチの完成だ。
僕が食べるわけではない。
「はい、どうぞ」
「おー! ありがとう」
わざわざ作った軽食を。暢気に新聞なんか読んでいる明智さんの下へ持っていく。
そう、ここでは僕が使用人だ。任期は一年。週休一日、但し休日出勤アリ。報酬はある事情から前借り扱いなので実質ゼロ。ブラックなんていいところだ。とんだしくじりだった。テレビ番組に出られるかもしれない。もしそんなことになったら迷わず僕はこう言うだろう。
皆さん、契約を結ぶときはしっかり考えてから結びましょう――と。
僕が己の過ちを噛み締めている時だった。
「ねぇ、小林少年。ちょっとこれを見たまえよ」
不意に、明智さんが声をかけてきた。
その顔が満面の笑みに彩られているのを見て、僕は対照的に顔を顰める。襲い来るのは、猛烈に嫌な予感。
「一体どうしたんですか?」
明智さんが指差すのは、つい先程まで読んでいた新聞。その記事の一つ。
見出しにはこんな文字が躍っていた。
『炎に乗じての火事場泥棒!? 二.〇カラットのダイヤ、盗まれる』
最悪なことに、事件が起きた場所は湯橋市つばめヶ丘一‐十五‐三。まさにここの近所だ。
シャッという短く鋭い音と共に、窓からの橙色の明かりが差し込む。明智さんがカーテンを開けたのだ。
自分の格好も忘れて、と言いたいところだがこの家は庭もちょっとした公園並みに広いのでさしたる問題はないかもしれない。
高台に位置する二階の窓を開け放てば、眼下に広がるのはまるでミニチュアの様な街の景色。
「この三ヶ月、目立った事件が無くてちょうど退屈していたところだったんだ」
……さっき言ったように、明智さんはどこからどう見てもニートだ。だが、決して職業欄に無職とは記載しない。空欄にするわけではない。代わりに書く文字がちゃんとある。
夕日に照らされながら、彼女は口の端を釣り上げた。
「Hay, It's been a while. Yunohashi.」
名探偵。
それが、明智さんの書類上の職業だ。
2.
次の日は本当に運悪く休日だった。
それはつまり、貴人ならぬ奇人の召使いであるところの僕は、休日出勤を余儀なくされることを意味していた。おかしい。僕はもう厄年だったろうか。学校の規定で、外出する時は授業がなくても制服を着なければならない。指定のブレザーに袖を通しながら、僕は一日中ジャージでゴロゴロする予定が崩れていく音を聞いた。
しかし文句を言ったところでどうしようもない。賽は投げられたのだ。諦めて明智さんに連れて行かれるままに歩く道中で、口伝えながら事件の前情報を入手しておくにした。
明智さんによればこうだ。
一昨日の夜十時ごろ、高級住宅街の一角にある篠原家から火の手が上がった。使用人がすぐに通報したものの、住宅の一部が延焼。幸いにして死傷者は出なかった。
状況から警察は放火と断定。防犯カメラの映像から容疑者の田畑郁也を逮捕。高利貸しを営んでいた篠原への怨恨からの犯行で、事件は解決したかに見えた。
しかし――。
「それで終わらなかった、と」
「そう。被害者の篠原景次郎は、火災現場から高価な蒐集品の一つが盗まれた、と主張し始めた。田畑はこれに関しては否認。一気に事件は迷宮入りさ」
渦中の品が、例の二.〇カラットという大粒のダイヤモンドが埋め込まれた指輪だった。
「ダイヤの詳細、記事に書かれてたから読んだけど、凄いねぇ、あれは。二.〇カラットなんて重さだけでも驚きなのに、カラーはE。クラリティもVVS2。カットは最上のトリプルエクセレントときた」
「何ですか、その呪文みたいなのは」
「ダイヤの品質査定の国際基準さ。色はZからDまでで、Dが最高。クラリティは透明度だね。VVS2は上から二番目。カットの質も評価に入る。で、ここにカラットを加えた4項目を合わせて4Cと呼ぶんだよ」
「……多分一生要らない知識をどうもありがとうございます」
脳の容量を無駄に消費しながら歩くこと数十分。段々と立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされた家が見え始めた。
なるほど火災からそこまで時間が経っていないこともあって、痛ましい焦げ跡を晒している箇所目に付くけれどそれは全体の一部だ。焼失した部分は余り多くはないらしい。
と思って見ていた時だった。
「あれ?」
件の家から、なにやら警官がぞろぞろと出ていく。
捜査後という感じでもない。どちらかというと肩透かしを食らったような……。
明智さんの方を見れば、彼女も不審そうに眉を寄せている。
その撤退している警察の中に一人、見知った女性の顔を見つけた。
「あ、弥子!」
その名前を呼びながらブンブンと手を振る明智さんだったが、当の向こう側はこちらの姿を見つけた途端に「げっ!」とあからさまに表情を強張らせる。
その様子に気づいてか気づかずか。相手が立ち止まった隙にだだっと距離を詰め、その手をがっしと握りしめるアクティブさはなるほどグレイト・ディテクティブ。先方がこちらを恨めし気に見て来るが、申し訳ない。こうなった明智さんは誰にも止められない。
我らが変人名探偵に絡まれている刑事は雛形弥子さん。なんでも明智さんの高校の頃からの腐れ縁で、今は捜査一課に努めているとか。
「ええい、都! アンタ何しに来たのよ」
「やあやあやあ、こんなところで会えるとはこれはもう運命の導きとしか言いようがないなぁ親友よ!」
「人の、話を、聞け! 公務執行妨害でしょっ引くわよ!」
雛形さんがキレ気味に叫ぶが、明智さんはと言えば素知らぬ顔でスルー。どころか流れるような動作で肩に手を回し、しなだれかかる。あれはウザい。心中お察しします。
「弥子ぉ、そこって噂のあれだろ。二.〇カラットのダイヤが盗まれたって家だろ。 どうしたんだい? もう撤収?」
「あんたまだ探偵ごっこ続けてたの……。守秘義務! 話せません! 帰って!」
「そう言わずにさぁ」
「もう……あなた、これの現助手でしょ? ちゃんと制御してよ」
断固拒否の構えを見せても一歩も引かない明智さんに、とうとうお叱りの矛先は僕に向かってくる。
「あなたがそれを言いますか」
「……そこを突かれるとね」
沈痛な面持ちで溜息を吐く雛形さん。僕が明智さんの召使い、いやさ助手という身分に身をやつす前は、雛形さんがこの奇想天外女の尻拭いをしていたらしい。それも高校時代からずっと。よく正気を保っていられたものだ。
それでよくもまあ警官に成れたものだと思っていたのだけど、この間聞いたところによると「ここだけの話、ちょっと不祥事起こしてもコイツが親世代のコネで押さえつけちゃうのよ」とのことだった。この世は金だった。こんな汚い真理があってたまるか。
ただ、警察は警察で、現場まで来て小競り合いをされるのは面倒なのか、また明智さんは明智さんで名探偵を自称する程度には実力もあるようで、彼女とある程度コミュニケーションが取れる人材は重宝するらしい。おかげでちょっと面倒な事件が起きると本来の管轄から外れたような仕事まで雛形さんが駆り出されるんだとかなんとか。コンビ解消しても迷惑を掛け続けるとは……この自称名探偵は、本当は疫病神とかそういう類なのではないだろうか。
「……はぁ。私が言ったっていうのは口外無用よ」
攻防は結局雛形さんが折れた。まあどうせここら辺は黙認されるように専用のマニュアルが組んであるんだろう。じゃなかったらこんなあっさり折れない。
彼女は、蟀谷を抑えながら言った。
「無くなったっていう指輪がね、見つかったのよ。焼け跡から」
明智さんの家ほど広くはないもののそれでもまあまあある敷地内にはもう一つ、離れがあった。今回の被害者、篠原陣平が滞在しているらしい。
とは言え、問題の宝石は見つかったという。だったらもうお話は解決だ。僕らが首を突っ込む必要はない。
ないはずだ。
ないはずなのに。
「すみません。突然お伺いしてしまって……」
「いやいや、こちらもちょうど悩みが一つ解決して、気分が良いんですわ」
明智さんの言葉に、恰幅のいい男性が腹をゆすりながら笑う。
僕らは、ここの家主の篠原景次郎氏と面会をしていた。馬鹿正直に「事件の野次馬に来た」とは言えないから、ネット新聞社の者だと身分を偽って。しかも、用意のいいことに、明智さんは偽造名刺を持ってきていたという。渡されたそれによると彼女は記者で僕はインターンらしい。
「それで、奪われたという宝石が戻ってきたと聞いたのですが」
「わはは。流石は記者さんだ、耳がお早い。ええ、実は恥ずかしながら、こちらが見落としておったのですよ」
「なるほど。……しかし、凄いコレクションですね」
言って、明智さんはやや大袈裟に部屋を見回す。
備え付けられた棚や飾り台の上には、真珠や珊瑚、象牙などで出来た宝飾品がズラリと並んでいる。これら全てが、篠原氏個人の資産だというのだから驚きだ。
「いやぁ……母屋が焼けたおかげで、あちらに置いていたモノを持ってきてしまいましてな。一通り置いてみたのですが、どうにも場所が足らんくて困っております」
「どうぞ」
再び笑う篠原氏の目の前に、皮をむいたフルーツが盛り付けられた皿が置かれる。出してくれたのは二十歳くらいの女性だ。しかし、篠原氏は独身だったハズだけど……。
「おお、すまんな。ああ、こちらは使用人の成原です」
「成原さくらです。お見知りおきを」
僕が怪訝に思っていると、向こうの方が自己紹介をしてくれた。成原さんの丁寧なお辞儀に、自然とこちらもやや深めの会釈を返す。
「いやぁ、成原はこう見えて宝石鑑定士の資格を持っていましてね。私の職業柄、借金のカタに宝石の類が来ることがままあるもんで……保証書が無い時なんかは値打ちを調べてもらうのにも重宝しておりますわ」
「なるほど。――ところで、急に押し掛けてきて心苦しいのですが、記事のために事件当時の状況と、宝石が見つかった時のことも教えていただけますか?」
「ああ、構いませんとも!」
余程機嫌がよくなっていると見えて、明智さんの急な願いでも、篠原氏は快諾してくれた。
「一番最初に火に気づいたのは成原なんです」
篠原氏が離してくれたことにはこうだ。
事件当夜、篠原氏は既に床に就いていたが、住み込みの成原さんは内職で起きたままだった。
用を足しに廊下を歩いていたところ、篠原氏の書斎から焦げ臭い臭いがするのに気づき、不審に思って入ってみたところ部屋の一部に火の手が上がっていた。
慌てて篠原さんを起こし、消防に通報したとのことだ。
「その時成原が火傷をしてしまいましてねぇ。すまんことをしました」
言われてみれば、確かに成原さんの右手に包帯が巻かれているのが見えた。掌の一部に傷があるということで、そこまで大きな怪我ではないから気づかなかったらしい。
「それで、その後特に気に入って書斎に置いておいた例のダイヤが見つからないことに気づいたんですが……その後、もう一度探したら焼け跡から出てきたという次第です。いや、早とちりで大騒ぎして全く、面目ない」
「いえいえ。――あ、そうだ。不躾で申し訳ないんですが、もう一つだけお願いが」
「はい?」
「例のダイヤ、拝見させていただいたり、写真撮影などはさせてはもらえないでしょうか?」
3.
本当に唐突で不躾なお願いだったけど、篠原氏はあっさりと持ってきてくれた。出てきたのはあっと驚くような大粒のダイヤをセンターストーンに掲げた、プラチナ製の指輪。特に凝った装飾があるわけではなかったけど、とにかく石の大きさが凄まじいインパクトを与えて来る。思わずため息を溢してしまう程だった。
……ただ、見せてくれと頼んだ当の明智さん本人は、それを数分じっくり見たあとデジカメで数枚撮って「ありがとうございました」と返してしまったのだけど。
終始ニコニコと機嫌がよく笑っていた篠原氏に見送られ、帰路につく。
昼前に家を出てから幾分時間が立っていたようで、春の午後の街中を、幾分傾いた陽射しが照らしている。昼飯抜きか……しねばいいのに。
「……で、結局何がしたかったんですか?」
心の中で恨み節を唱えながら尋ねると、明智さんは驚いたように立ち止まって、目をぱちくりとさせながらこちらを見てきた。
「驚いた。君は気づかなかったのかい?」
「は?」
ヤバいイラつく。
空腹も合わさって殺意の倍率ドンな僕に構わず、明智さんはひらひらと右手を振りながら言う。
「おいおい、しっかりしてくれよ。君はこの私、名探偵の助手なんだぜ? あれくらい見抜いてくれ」
「御託は良いんで本題に入ってください」
「指輪は盗まれてしまったのさ」
今度は僕が目をぱちくりさせる番だった。
意味が分からない。この人はいきなり何を言い出すんだ。だって指輪はさっき、僕たち自身がこの目で確かに見たはずじゃないか。
「え、ちょっと待ってください。どういうことですか?」
「どうもこうもないよ。指輪は本当に盗まれていたんだ。ただ、篠原氏はそれに気づけなかっただけさ。盗まれた指輪と瓜二つの、真っ赤な偽物が出てきてしまったんだからね」
あの指輪が、偽物?
「間違いないよ。あの石はジルコニア。偽ダイヤの代名詞、1カラット辺り1ドルの捨て値で取引されるような代物さ。重さが倍くらい違うし、光の拡散度が強すぎるせいでプロズム効果なんてのが起きてしまうけど」
ひとしきり蘊蓄を垂れ流した後、明智さんは鼻歌でも歌いそうな足取りで歩きだした。
「まず大前提として、この事件には全く別の、二つの思惑があったのさ」
言って、頭の上に掲げた握り拳から人差し指を立てる。
「一つ目は、最初の放火事件。この犯人の田畑は、どうして篠原邸に火を放ったのか」
「……高利貸しだった篠原さんへの、私怨です」
「その通り。加えて言うなら、篠原氏が経営する金融は取り立てがあくどい事でその筋では有名でね。恐らく田畑の場合も、ここら辺が動機になったんだろう」
確かに、僕らがあった篠原さんは終始ご機嫌で、気前よくこちらのお願いを聞いてくれた。でも、それは裏を返せば極度の気分屋ともとれる。
そう言えば、彼自身も溢していた。『借金のカタに宝飾品の類を取る事も少なくない』と。逆に言えば、いざ取り立ての時になれば現金じゃなくても持って行ってしまう、根こそぎ持っていってしまうような冷酷さを、あの人は備えているのではないか。
「さて、問題。そんな人間に恨みを持っているのが、田畑だけだと思うかい? なんならもっと深い怨恨がある人がいるのでは?」
「……」
「それが第二の線だ。こちらの犯人は、恐ろしい執念深さで奪われたものを取り返す機会を窺っていたんだ」
でも、それが、指輪が偽物だということにどうつながるというのかが全く見えてこない。
だけど、明智さんはそんな僕の疑問を見透かしたように言う。
「つまりこういうことさ。第二の事件の犯人はずっと前から件のダイヤを盗む算段を立てていた。そこで田畑が事件を起こした。好機と見た第二の犯人は、文字通り火事場泥棒に入ったんだ。これなら、焼け跡からダイヤが見つからなくても『燃え尽きたのだろう』で処理されるんだから。自分の罪は、誰にも知られないまま墓場まで持っていける」
「けど、実際はそうはいかなかった……」
「そう。予想よりも早く火が消し止められてしまった」
言いながら、名探偵はくつくつと含み笑いをもらす。まるで、事件の起きたまさにその時、その現場を遥かな高みから俯瞰する神のように。
「慌てただろうねぇ。だって、自分の犯罪ごと全部燃やしてくれるはずだった炎が、期待外れにも小火で終わってしまったんだから。おまけに火事の現場から盗み出されたことを考えれば、熱伝導率の高いダイヤはさぞかし高温になっていただろう。それを持ち去ったんだから手に火傷の一つや二つはできていてもおかしくはないはずだ。そんなの、警察だって少し調べればすぐに気づくし、そうすれば特定の幅は一気に狭まる」
そこで、犯人は次の一手を打った。
「騒ぎを治めるためには、篠原氏を何とか誤魔化すしかない。そこで前々から用意していた偽の指輪を持ち出した。奇跡的に燃えずに残っていました、なーんて言いながらね。普通なら疑われてもおかしくないけど、ただまあ、盗まれたかと思ったばかりの指輪を見知らぬ人にホイホイと見せびらかすあたり、篠原氏は宝石そのものよりは宝石に囲まれた自分が好きなタイプの人みたいだから、そこは犯人にとって好都合だったかもね」
「……ん? でもおかしいですよ」
それなら、鑑定士に見せてしまえば一発でバレてしまう。その場だけは凌げても、そんなに長い間言い逃れはできないはずだ。
だが、明智さんはそんな僕の反論をいともたやすく打ち砕いた。
「ああ、そこに関しては問題ないよ。だって、篠原さんは鑑定士からその指輪が本物だと言われるんだから」
「え……?」
「いやぁ、篠原氏が真実を知ったら人間不信になるんじゃないかな。だって、一番身近で、一番信頼を置いている鑑定士が、今回の黒幕なんだから」
実に楽しそうに、声のトーンを上げて。
咎人の名前が紡がれる。
「成原さくらさん。彼女が、二.〇カラットのダイヤを盗んだ張本人さ」
俄かには信じ難い。でも、あの指輪が本当に偽物ならそれ以外に言いようがない結論だった。
でも、もし本当にそうなのだとして。
成原さんが、犯人なのだとして。
……篠原氏は成原さんに全幅の信頼を置いているように見えた。それこそ、火事が起きた時の詳細を、彼女が言うことをそのまま鵜呑みにするくらいに。
騙されやすければ高利貸しなんて商売はやっていけない。ほいほい気前よく相手の言うことを信じるのは鴨の仕事であって、それを釣る側には全く不要な技能だ。
それでも、そんな奴に自分の言葉を無条件に信じさせることができるようになるとしたら、そこにはどれだけの積み重ねがあったのだろう。どれだけの貼りつけた善意の仮面があったのだろう。
きっと生半可な道じゃなかったと思う。宝石鑑定士の資格だって本物を取らなければいけない。信頼を勝ち取るまで、誠意を込めて尽くしていると錯覚させなくてはならない。
そこに、どれだけの執念があったのだろう。
「あれくらいの大粒のダイヤが埋め込まれた指輪になってくると、自然と用途は決まってくるんだけど……小林少年、わかるかい?」
思わずしんみりしてしまった僕に、明智さんはそんな風に問い掛けてきた。
当然、そんなこと知るわけがない。首を横に振ると、明智さんは、さっきよりも幾分静かな声で、そっと教えてくれた。
「プロポーズ用だよ。一世一代の大勝負に相応しく、大粒のダイヤを送るのさ」
そう、口にする明智さんの目はどこか悲し気で。
「君は気づいてなかったかもしれないけどね。実は、あの指輪、石座の裏側にイニシャルが二つ、小さく彫られていたんだ」
「……」
「片方はS.N。もう片方は――まあ、これはあまり重要じゃないな」
S.N。そのイニシャルには覚えがある。
サクラ・ナリハラ。
贋作にあるものは、即ち真作にもあるということだ。
つまり、その指輪は元を正せば成原さんが持っていたもので――そして、プロポーズに使われるように指輪を、彼女が持っていたということはつまり。
「私達から見ればただのちょっと高価な指輪さ。金を積めば代替品なんていくらでも手に入る。でも――彼女にとっては、人生を掛けるほどの大事なものが、そこには詰まっていたんだ」
サッと吹き込んだ暖かな風に運ばれて、並木道に植えられたソメイヨシノの花びらが一枚、音もたてずに僕の目の前を通り過ぎて行った。