エピローグ
あれから、一週間が過ぎた。
昼時の白烏警察署に、給湯室へ向かう宇津木の姿があった。
白烏街は、相変わらず治安は悪いが、それでも多少は改善されたように思える。最大の要因は、ここ一帯の黒社会を取り仕切っていた東条組が事実上の解体に陥ったことだろうか。
棚からインスタントラーメンとティーパックを取り出す。本当はコーヒーにしたいところだが、豆の入った瓶は生憎と羽黒関係の証拠品として押収されてしまったので我慢だ。
「私も頂いても、よろしいですか?」
不意に、背後からそんな言葉が聞こえた。
振り向くと、そこにいたのは仁科だった。拘置所では随分やつれていたように見えたが、二日ほど休養を取った後はすっかり元の調子だ。
「私にも、紅茶をください」
悪戯な微笑みを浮かべながら、彼女は自分のカップを差し出した。
やや小さめのテーブルに向かい合って、二人が座る。
インスタントラーメンが出来上がるのを待ちながら、宇津木はカップに口をつける。渋い。紅茶を淹れるのはどうも苦手だ。
「……結局、あの後はどうなったんです?」
「は?」
唐突な仁科の問い掛けに、アホのような顔で聞き返してしまう。
呆れたように、仁科が溜息を吐いた。
「先日の事件ですよ」
「どうもこうも……いつもと同じだよ。報告書は渡ってるだろう?」
そう答えながら、宇津木は事件の顛末を思い出す。
高橋重光改め高橋堅市と東条千鶴の二人は、窃盗、公務執行妨害、器物破損その他諸々で起訴されたものの、なんとか執行猶予付きの禁錮刑に留められた。前科は付くものの、更生の余地は十分にある。
対して、東条重雄には死刑の判決が下った。
元々アウトローであるうえに、二人の殺人と一人の傷害、さらに言えば、元妻であったはずの二人目の遺体に関しては、余りにも残虐性が高いと判断されたのだ。
殺人の前科もある上、彼の逮捕に伴って東条組も一斉摘発が行われたのがさらに彼の立場を悪くしたのは間違いあるまい。控訴、上告も棄却されたという。
また、彼に長年に渡って協力していた羽黒は、逮捕直後に医師免許剝奪。裁判では重雄にすべてを擦り付けようと躍起になっているようだが、重ねてきた罪の数が余りに多すぎた。どう足掻いても無期懲役は免れぬと聞く――。
「警部補、警部補」
仁科の呼び声で、宇津木は現実へ呼び戻された。
「何?」
「時計、ご覧になってます?」
何だ何だと壁掛け時計へと目を向けてみる。
十分近く経っていた。
慌ててラーメンの蓋を捲ってみれば、見事に麺が汁を吸い始めていた。
結果、ぶよぶよと太った麺を啜るという悲劇に。
口の中と、あと何故か目頭にも熱いものを感じながら、ラーメンを口に運ぶ。
「そう言えば、警部補。異動が決まったんですって?」
「ん? おお」
仁科の言う通りであった。
今回の一件の中で、宇津木は無許可で発砲&事故誘発という大ヘマをやらかしてしまっていた。
ここまで大事になっては流石に厳重注意では済ましてはくれず、他所へ放り出されることになったのだ。
まあ、免職や降格になってないだけありがたいともいえるが。
「何方へ?」
「湯橋市ってところ。治安は悪くないみたいなんだが、署長殿が言うには滅茶苦茶厄介な奴がいるとかなんとか……」
仁科にそう答えるが、当の彼女、随分と様子がおかしい。妙にニヤニヤしてこちらを見ている。
俺がここにいなくなるのがそこまで嬉しいかと思ったが、その実は違った。
「あら、奇遇ですね」
仁科が、より一層微笑みながら言う。
「先日、私にもこのようなものが」
彼女がそっと机の上に出したその紙には、こう書いてあった。
『異動命令 仁科縁里
右の者に、湯橋警察署への移動を命ずる。
白烏警察署署長 風間慶宕』
一瞬。
本気で口の中のラーメンを噴き出すかと思った。
「と、いう訳で」
滅茶苦茶上機嫌なご様子で、悪戯っぽい笑顔の仁科が告げる。
「引き続き、お付き合いよろしくお願いしますね。宇津木さん」
☂
白烏市からやや離れたところにある警察病院。
日の光が射す廊下を、鴇永蒼月は歩いていた。
手には見舞い用の果物詰め合わせセットを提げている。まあまあに値が張ったが、そこは気にしないことにする。
やがて、ある病室の前へ辿り着いた。
豪華なことに個室だ。ネームプレートには『高橋堅市』と書かれたシールが貼られている。
……というか、病院なのに中が妙に騒がしい。中で何をやっているのだ。
一応の礼儀としてノックをし、「失礼します」と引き戸を開け
「あー堅市さんそれ私の! 私の雪見だ○ふくなんですけどー!」
「うるっせぇなこれ見舞い品で買って来たんじゃねぇのかよ第一雪見だ○ふくなんてお前はいつでも食えるだろうがこっちは絶対安静なんです今ー!」
後悔するのに一秒もいらなかった。ノリが完全に小学生男子のそれだ。どったんばったんおおさわぎである。
「あ、鴇永さん。こんにちはー!」
入り口で顔を覆っていると、こちらに千鶴が気づいたようだ。ちなみに、その手には堅市から強奪した人気氷菓がしかと握られている。
「あ、ああどうも……お久しぶりです」
震える声で挨拶を返しながら、仕方なくそちらへ歩み寄る。
「……よぉ。また来たのか」
ベッドのすぐ傍まで辿り着くと、堅市が小さな声でそう声をかけてきた。
実のところ、蒼月は最近ほぼ毎日ここへ通っていたのだ。
かつて担当した被告人の、経過観察の名目で。
「……当然ですよ。あなたには散々手を焼かされた」
「昭和の漫画かよアンタ……」
蒼月の言葉に、ゲンナリした声を上げる彼の姿に、不思議と蒼月の口元に笑みがこぼれる。
「今日は、一応お見舞いの品としてこれを」
そう言って、手に持ったバスケットをベッドサイドに置く。
対する堅市の反応は芳しいものではなかった。
「果物なんか置いといたら、そこの意地汚い女に全部持ってかれるだけなんだが」
「む! それは誰のことですか堅市さん!」
ぎゃーすと千鶴が堅市に噛みつく。ここまで騒げているのなら、もう大丈夫だろう。
数分後、二人が落ち着いた頃合いを見計らって口を開く。
「実は、今日はお二人に伝えなくてはならないことがあります」
「……その前にこの女を止めるという思考は無かったのか?」
「――恐らく、お二方とお会いするのは、これが最後になるかと」
ボロッとした堅市が何か訴えてくるのを無視して、蒼月は言った。
「……どこか、遠くに行ってしまわれるんですか?」
途端、神妙な顔つきになった千鶴が、そう問うてくる。
「そうですね……それが一番、近いかも知れません」
「ま、大丈夫だろ」
しんみりとした雰囲気を、底抜けに明るい堅市の声が、ぶち壊した。
彼は、粗野な笑みを浮かべて続ける。
「俺でもなんとか命繋いでられてんだ。お前なら、この先どこに行こうと上手くやっていけるさ」
「……そう、ですか。ありがとうございます」
込み上げてくるものを抑えながら、蒼月はなんとかそれだけを返した。
が。
「では、私も今後の予定が詰まっていますので。お二人のご健勝を祈っていますよ」
すぐに感情を整理して、会釈する。
千鶴と堅市の返事を背中越しに聞きながら、病室を後にする。
「……さようなら、兄さん。元気な姿が見れて、良かった」
――ドアが閉まる本当に最後の一瞬だけ、自分の本心に自由を許しながら。
それから数日後に、検察官・鴇永蒼月は消息を絶った。
その日の朝、検察庁にある彼の机の上には、検察官徽章と一通の書き置きだけが残されていたという。
書き置きの名義は、『高橋光哉』なる全く別の人物の物となっていたが、事の真相は未だに明らかになっていない。
Fin.