第九話 思い出

車体がガタガタと揺れる。

手に力を籠めるが、思うようにハンドルは切れなかった。やはりパンクした車では無理があるらしい。

「どこかで乗り捨てるしかねぇな。有希、歩けるか?」

 後部座席の有希に向かって問い掛ける重光。

 しかし、返答はない。

「有希?」

 再度呼びかけるが、やはり何も返ってこなかった。言い知れぬ不安が重光の心に芽生える。

「おい、どうした――っ」

 振り返って、思わず重光は言葉を詰まらせた。

 有希は、シートの端に座っていた。

俯いたままなので表情はわからない。が、その肩は小刻みに震えていた。

彼女は今、怯えている。切っ掛けなど明白だった。

不意に、重光の脳裡にあの老翁の顔が過ぎる。

底知れぬ悪意を湛えた、邪悪な笑み。

 気づくと、ハンドルを持つ手が震えている。

 重光は目先の路地裏に入った。今は少しでも人の目から逃れたい。

 とにかく、できるだけ遠くの、どこか休める場所を求めて車を走らせ続ける。可能ならタイヤの交換も行いたい。

 そう思いながら暴れるハンドルを何とか御している時だった。

「重光さん」

 後部座席から、有希の声。

 頼りなく、か細い声だった。今にも消えてなくなってしまいそうな儚さで、彼女は問うてくる。

「重光さんは、どうして暴力団に入ろうと思ったんですか?」

「有希……」

 明らかにいつもと様子が違う、陰を帯びた表情。

 不意を突かれたような問いに、一瞬、言葉を失った。

 何故。何故、か――。

 問いに対する答えを返すべく、頭の片隅に封印していた記憶を呼び起こす。

 重光の頬を一筋の汗が滑り落ちた。それは先程感じた畏怖か、あるいは場の緊張によるものなのかはわからない。

 ただ、今しなければいけないことはわかったつもりだった。

「有希、俺は――」

 重光は一段、トーンを落とした声で、少女に諭すように語り掛けた。

「俺はな、拾われたんだ。あのクソ親父にな」

 

 

 ――もう何年前の話だったろうか。

 白烏街の外れの、閑静な住宅街。

 まだ運命の歯車が狂う前の、安穏な一つの家庭がそこにあった。

 

「とうさんおかえりー」

 二人の少年が、音のした玄関の方へ向かっていく。その後ろには母親の姿もあった。

「あなた、お帰りなさい」

 対して、出迎えられた男性はその光景をほほえましげに見つめながら、

「おう、ただいま。元気にしてたか?」

「うん! ずっと二人で遊んでたんだ」

「そうだよ! 兄ちゃんと遊んでた!」

「そうかそうか。良かったな」

 そう言い、二人の少年の頭をわしわしと撫でる父親。

 が、やがてそれも切り上げ、書斎へと続く廊下へ足を進める。

 それを見止めて、年上の方の少年が不思議そうな声を上げた。

「とうさん、まだ仕事残ってるの?」

「ああ、少し手こずっているのがあってな。構ってやれなくて悪い」

 息子への謝罪の念を口に表し、父親は一人、書斎に入る。

 整理された室内。壁に設置された本棚には、法律書がズラリと並んでいた。

 天秤と向日葵の意匠のバッヂ――弁護士記章を付けたジャケットを脱ぎ、ハンガーへと掛ける。

 ついでにネクタイも緩め、その先端を胸ポケットへ納めた後、父親――高橋法助は、どっかりと机の前の椅子へ身を委ねた。

 思わず漏れる、大きな嘆息。無理もない。彼は今、自らの信念と突き付けられた現実の狭間で、必死にもがいているのだ。

「俺は、どうすればいい?」

 誰かへ向けた言葉ではない。そも、職業柄、だれにも相談などできなかった。

「俺はあんな厄介な連中の味方をしなければならないのだろうか」

 

 その事件は一軒の居酒屋で起こってしまった。

 初めはほんの軽い、些細な口論だったと、その店のアルバイトは証言する。

 酩酊状態に陥ったとはいえ、ただの一般人同士であればよくあることで済んだだろう。もしかすれば殴り合いの乱闘程度にはなったかもしれないが、まあ、その程度だ。

 しかし、そうはならなかった。

 相手の言葉に堪忍袋の緒が切れたもう一方が、懐から取り出したナイフで相手を刺し殺してしまったのだ。

 不幸だったのは、被疑者が暴力団関係者だったこと。高橋が頭を抱える悩みの種は、これだった。

 その被疑者とは――東条重雄。東条組の、組長だった。

 こうなってくると話はこじれてくる。若頭を筆頭に、東条組の組員たちは高橋に口々にある要求を突き付けてきた。

 ――親父殿を、無罪にしろ!

 土台無理な話だった。酩酊状態とは言え殺人は殺人。さらには、調べれば調べる程、責任能力が欠けてるとは言えないような状況だったことがわかる。余罪も含めれば、求刑はとてつもなく重いものとなるだろうことは、素人でも予想できた。

 

 そしてそれから数日後、裁判が開廷した。

 判決は殺人罪による懲役八年。これでも必死の弁護で、当初検察側が求刑したものよりも随分と軽くなっていた。

 被告人席の背後にいた刑務官が東条の身柄を拘束する。

 立ち上がった東条が、両腕を掴まれる形で退廷する瞬間、東条と高橋の視線が交錯した。

 すべてを受け入れた様を取り繕ってはいるが、その瞳の奥に、暗い色が宿っているように見えたのは、高橋の見間違えではあるまい。

 

 そして、それから一ヶ月も過ぎた頃。

 家族とともに、日用品の買い出しに車を走らせていた高橋の車は――着いた先のデパートの駐車場で、二トンはあるダンプカーと事故に遭い、グシャグシャに踏み潰された。

 

 

「――結局、その事故で、一家はガキ一人を残して全滅でな」

 パンクしていることもあり、速度を落としながら交差点を右折する。

 白烏街の裏通りは表の喧騒が嘘であるかのように静かで、暗い。一定の間隔で並ぶ電灯や、時折見かけるネオンの看板が深い闇をかえって際立たせていた。

「困ったことに、その一家には再従兄弟ぐらいしか親族がいなかったうえに、その再従兄弟も残されたガキの引き取りを渋ったらしい。行き場を失ったガキは、里子に出された」

 人気のないガソリンスタンドで車を停める。さびれてはいるが、何とか営業はしているようだ。

見れば、上手く入りそうなタイヤも用意されていた。車を乗り捨てる必要は無くなった。

 バイトと思しき青年に後輪の付け替えを頼み、備え付けの店に入る。

 こちらが注文をしている間、席を取っておいてくれた有希に労いのコーヒーを持って行ってやると、顔を顰められた。

「コーヒーは苦手か」

「い、いえ、大丈夫です! 大人ですから……!」

 言って、黒い液体を口に含む有希だったが、目尻に涙が浮かんでいた。味覚はまだまだお子様のようだ。

「……それで」

 結局駄目だったらしく、ミルクと砂糖を強敵(コーヒー)に投入しながら、有希が切り出す。

「話を戻しますけど、その里子に出されたっていうのが――」

「ああ、俺だ」

 重光がどこからか包装された握り飯を取り出し、片方を有希へ渡す。コーヒーと一緒に確保していたらしい。

 ビニールを破ると、乾いた海苔と米の香りが鼻腔をくすぐった。

「当時、親父――重雄は服役中でな。仮釈放が許された折に俺を引き取ったらしい」

 握り飯を頬張り、固めに炊かれた飯を咀嚼、嚥下する。中に入っていた梅干しがまた絶妙だ。

「でも、どうしてでしょう」

 随分と濁ったコーヒーを口に含み、しかし眉根を寄せてさらにミルクと砂糖を注ぎ込んでいる有希が、そう口にする。

「どうしてっていうと?」

「どうしてあの人――重雄は、重光さんを引き取ったんでしょう」

「さあな」

 シャツの第二ボタンを弄びつつ、重光が答えた。

「あの野郎の考えていることなんて知らん。一応、裁判で弁護してくれた義理とか言ってたような気もするが、どうにもきな臭ェ」

「……」

 ピクリ、と。

 容器からミルクを注ぐ有希の手が一瞬止まったが、気づかずに重光は続ける。

「昔からそうだ。アイツは自分のことをとにかく隠したがる。戦略なのかはわからんが、おかげで組の連中もアイツに関して深く知ってるやつはいなかった」

 ――養子であるはずの俺でさえ、な。

 そう締めくくって、最後の一欠片となった握り飯を口に放り込む。

 続いて、重光は半眼で有希を見やった。

「……というかだな」

「はい?」

 小首を傾げる有希に、重光はゴツゴツした指を突き付ける。

 より正確に言えば、その手の中に収まっている、コーヒーのカップへ。

「ミルクと砂糖、入れすぎじゃないか?」

 言われて、有希は手元に視線を落とす。

 先程から散々ミルクを注がれたことによって、かつて黒だったコーヒーはキャラメル色よりも尚白に染まっていた。砂糖に至っては飽和量を超えて溶け残った結晶がカップの底に層をなしている。

 なんかもう、小学生がファミレスで遊んだ結果みたいになっていた。

 その、見ているだけで口の中が甘くなりそうな液体に、口元を引くつかせる重光。というか、あんなものを飲んでいたら糖尿病まっしぐら、勢い余ってオーバーランだと思うのだが。

 有希は、恥ずかしさ混じりに軽く膨れながら、カップの端に唇を載せた。

 

「私の勝手じゃないですか」