第四話 裏切り
「繁華街の裏道で見つかった首無し遺体。その現場で採取された毛髪のDNAが、逃走中の高橋重光のものと一致したそうだ」
白烏警察署の捜査本部で、宇津木は上司からの報告を受けていた。
「東条組組員連続殺人事件の犯人は高橋重光とみて間違いない。君は、その犯人をみすみす逃がしたこととなる」
上司の言葉が重くのしかかる。
バンッ! という音が部屋に鳴り響いた。上司が机を力任せに叩いたのだ。
「是が非でも奴を捕まえるんだ! 警察の沽券に関わる……ッ!」
禿頭を真っ赤にしながらそう怒鳴り散らす上司に、宇津木は深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。全力を尽くします」
これで何度目か分からぬ謝罪を述べ、捜査本部を後にする。
(くそっ、まさか包囲を力任せに突破するとは……予想外だった)
忸怩たる思いが、宇津木の心を満たしてゆく。
(高橋重光が二つの事件に関係しているのは明らかだ。奴を逃したのは大きい。だが――)
立ち止まり、思考する。
(奴は本当に犯人なのか?)
確かに、現場に残された数々の証拠が、重光が犯人であると示している。そこに疑問を差し込む余地は無いはずだ。
それにも関わらず、胸中からその疑念が消え去ることは無かった。
「今回の事件、ひっかかるな……」
何が、どうひっかかるのか。それは宇津木自身にもよく分からない。
しかし、刑事としてのカンとでも言うべき部分がしきりに騒ぐのだ。
何かがおかしい、と。
☂
重光たちは豪快なハンドル捌きで警察の包囲網を抜けた後、開けた国道を走っていた。この時間になると、片側三車線が大袈裟に見える位の車しか走っていない。
「にしても、良くあの場所が分かったなァ」
ぼやくように呟く重光。入っていくのを誰かに見られていたのだろうか。
ジープを静かに走らせながら、片手で胴ポケットをまさぐる。取り出したのは煙草の小箱。
「悪ぃが、ちょっと吸わせてくれ。落ち着くんでな」
言って、紙巻き煙草を一本取り出す。その拍子に転げ落ちたライターを、有希がすかさず拾い上げた。
「ついでに火ィ点けてくれねぇか」
「わかりました。ここを押せばいいんですね?」
「おう」
明らかに慣れてない手つきで、有希が火を灯す。
「ありがとよ」
煙草を咥えながらなのではっきりとは聞こえなかったかもしれないが、重光は微笑みながら礼を述べた。
運転席の窓を開け、大きく息を吐く。焦げた香草の香りを含んだ煙が、外へと流れる。
「この香り……『氷雨』ですか?」
不意に、有希が口を開いた。
重光が少し驚きを含んだ表情で有希を見る。『氷雨』と言うのは、彼が好んで吸う銘柄だった。
「凄ェな、知ってるのか。さては……吸ってたか」
「まさか。これでも私、二十歳になったばかりですよ。そんな非行少女じゃありません」
からかうような調子で尋ねた重光に、有希は憤然として答えた。
「その割には、街じゃあんなことしてたみたいだがな」
「……お父さんが好きだったんです。煙の中にほんの少しだけメントールが混じってて、私も好きでした」
少し意地悪な重光の言葉を、有希は話を逸らすことで受け流そうとした。
「吸いませんでしたけどね」
次いで、やや慌てたようにトーンを高くして付け足す。
「そうだったか」
そんな彼女の様子を見た重光は、含み笑いをしながら車内の凹みに灰皿を固定した。
「……あそこにいたのだって、あの日が初めてでした」
やがて有希がぽつりと呟く。
「本当は怖かったんです。どんな人に相手にされるんだろうって。どうかしていたんですね、私」
「あんなこと、簡単にするもんじゃねェ。金どころか、自分まで破滅に追い込んじまうかもしれねぇんだ」
「はい……」
低い声音で言うと、有希が体を小さくして応じた。
「まあ」と、重光が続ける。
持ち上げられた左腕の掌では、人差し指がピンと張られていた。
――有希の胸に向かって。
「お前のその貧相な体じゃ、誰が拾ったか分からんがな」
その後暫らく反対車線から来る車カーチェイス状態になったのは言うまでも無い。
旅路の末に、とある民家が見えた。
念のため、その家から少し離れた物陰にジープを停める。
車高の問題で、重光が先に降りてから有希の下車を手伝う。
その一軒家の表札には「高倉」と刻まれていた。
二階の一室から煌々と光が漏れている。
「行こう。多分、高倉はあそこだ」
有希を促し、玄関の前に立つ。やや古い型のインターホンを押すと「ピン、ポーン」という軽快な音が家の中から小さく響いてきた。
「あの、その……高倉さんにご家族は……」
「いねぇよ。実家は田舎の方らしいし、結婚したって話も聞かねぇ」
おずおずと尋ねてくる有希に素っ気なく返す。
しかし、いつまで経っても誰かが下りてくる気配が無い。
(……電気を点けながら寝ちまったのか?)
さすがに不審に思うが、その思考を「へっくち!」という小さなくしゃみが遮った。
見れば、有希が肩を抱いて鼻を啜っている。
「おいおい、大丈夫か?」
「は、はい。すみませ――へっくし!」
またもくしゃみをする有希。とても大丈夫には見えない。
だがそれも無理からぬことだった。何せ、ほとんど着の身着のままで家を出てきたのだ。コートは置いてきてしまったし、上着は最低限のものだけだ。
「……」
重光はしばらく無言で頬を掻いていたが、やがて意を決して上着を脱ぎ、それを震える有希に掛けてやる。
「え?」
「……俺は大丈夫だから気にすんな」
目を丸くする有希から顔を背けて言う。照れて、おかしな表情をしている顔を隠すために。
チラと横目で見ると、彼女の頬も赤く染まっている。
二人の間に、妙な雰囲気が漂い始める。
その時だった。
弾かれるように重光が顔を上げる。
周囲にチカチカと点滅する赤い光。言うまでも無く、赤灯だ。
慌ててジープを隠している場所を覗き見るが、遅かった。彼らが移動手段として使ていた鋼の塊の横に、複数のパトカーが停まっている。
「やられた……」
重光が、呻く。
電気が点いている窓を見上げると、小太りの男と目が合った。
舌打ちを鳴らす。
「あの野郎、俺たちを売りやがった……ッ!」
「そ、そんな……じゃあどうすれば……!?」
「……とにかく、足を確保しなきゃいけねぇ」
囁き合いながら、重光は高倉の家のガレージを見る。
シャッターは手動。収まっているのは、仕事などで使っているのであろう乗用車と――
「……アレがいいな」
素早く『それ』に近づき、状態を確認。防犯意識が低いのか、幸いにチェーンの類はついていない。
ポケットから細長いピンを取り出し、慣れた手つきで鍵穴に突っ込む。ものの一〇秒でエンジンがかかった。
「――乗れッ」
「はい!」
ほとんど二人同時に『それ』に飛び乗る。位置取りは運転手の重光が前。その体に、後ろに乗った有希がしがみつく。
去り際に窓へ向かって中指を立ててから、『それ』の――ハーレーのスロットルを全開にした。
轟音と共に砂塵が巻き上がる。
こちらに警察が気付き、パトカーがこちらへ走り出す。
だが、今度はこちらの方が早かった。
鈍く光る車体は猛然と走り去り、パトカーをはるか後方へと置き去りにしていった。