第三話 逃亡の始まり
有希が目を覚ましたのは、街も寝静まった深夜だった。
机上のデジタル時計が、無機質な蛍光色を示している。
「……二五時二二分?」
と、あることに気づく。
なんだ、反対か。闇に紛れた黒い長方形の時計の天地を、元に戻す。
正確には、夜の二三時になりかけていた。
真っ暗な応接間。その中のソファーに横になっていた有希は、上体を起こした。
「……?」
自分の身体にかけられていた者に気付く。これは……コート?
「高橋さんがかけてくれたのかな」
やおら立ち上がる有希。男物のコートは軽く畳んで傍に置く。
天井の蛍光灯がぶら下がっていたと思われる場所まで、暗い中を少し歩いた。
やがて手を伸ばし、紐を掴む。引けばカチ、カチとした手応えと共に、白い光が灯る。
広い応接室の机と黒電話。先程まで横たわっていたソファーを除けば、この部屋にあるのはその二つだけのようだ。
ドアを開ければ、暗い廊下が溢れ出る光で薄く照らされる。再び紐で蛍光灯のスイッチを切り、壁伝いに歩く。
すると、右手に固く冷たい金属の感触。ドアノブのようだ。
(ここにも部屋が……)
新たな部屋の中へ入ろうとする。立て付けが悪くなっていたのか、始めはうまく扉が開かなかったが、何とか解決できた。
灯りを点ければ、中には小さな机がたった一つ。
(子供部屋だったのかな)
ちょっとした好奇心が芽生えた。そっと机に近づき、備えられていた引き出しを開けてみる。
現れたのは、一枚の写真。
「家族写真、かな」
そこには大柄な男性が一人、その肩に跨る男の子が一人、そしてこちらへブイサインを向けている男の子が一人、写っていた。
日付は一九九五年。有希が生まれて間もない頃である。
そこで気づいた。
このポーズをとっている男の子、どこかで見た様な――
「おい」
「うわあああっ!?」
背後から響く声。驚きのあまり、裏返った声で有希が叫ぶ。
振り返れば、ポケットに手を突っ込んだ重光が立っていた。
「応接間にいないと思って探してみれば……ここにいたのか。ん? 何持ってるんだ?」
重光が有希の持っている写真に気付く。もう遅かった。
「す、すみません。勝手に見てしまって……」
おずおずと、手にしていた写真を渡す。
受け取ったそれをまじまじと見つめる重光。
「……こんな頃もあったか」
口の端を少し歪ませる彼に、有希は少し躊躇いながら尋ねた。
「やっぱり、そこに写っているのは――」
「ああ、親父と俺、俺の弟だ」
重光の瞳に、悲しげな光が宿る。
それで、なんとなく理解できた。
(そっか、この人たちはもう……)
「ま、昔の話さ。今日はもう寝ようぜ? 明日もあるんだ」
そう言って、重光が写真を元あった場所に戻した時だった。
彼の表情が、強張る。
最初、何が起きているのかわからなかった。
が、徐々に遠くから響いてくるその音に気付いて、顔を青ざめさせる。
それは、サイレンの音だった。その中に混じって、スピーカー越しの中年男性の声。
窓の外を、赤い光が照らす。
つまり。
「……警察!?」
☂
宵闇に炎の色を浮かべる煙草を咥えながら、宇津木はパトカーの側面に身を預けた。
(首無しの被害者も、東条組の構成員だった)
溜息と共に煙を吐く。嫌煙家らしい若手の警官が顔をしかめたが、気にせず思考を続ける。
(重光自身に殺しの経験が無いのが引っ掛かるが……まあいい)
携帯灰皿に煙草を押し付ける。
「しょっぴいてからじっくり話し合えばいいだけだ」
最後だけを言葉にして、拡声器のマイクに口を近づける。
もとより重光が犯罪者であることに変わりは無い。
そして、宇津木は犯罪者にかける情は持ち合わせていない。
☂
『あー、高橋重光、並びにその同行者に告ぐ。お前達には殺人事件に関与している疑いがかかっている。すみやかに投降しなさい。尚、この家は既に包囲されて――』
「……殺人だと?」
外から聞こえてくるやる気が無さげな警官の声に、重光は眉を顰めた。極道の頃にもそんなことをした覚えはない。重光の仕事は直接的な抗争よりも、事務的なことが多かったからだ。
(何か裏がある)
「ど、どうしましょう!? というかこれ、私も容疑者になっているんじゃあ……!?」
訝しむ重光の隣では、有希があわあわし出していた。
「どうするって、そりゃお前――」
取り乱す彼女に、重光は不敵に微笑んでみせる。
ポケットから出した左手に輝くのは、一本のキー。
「逃げる」
☂
高橋重光が潜伏している民家を取り囲んでいた警官たちは、その音を聞いた。
重く、低い、地響きのようなエンジンの駆動音。相当に馬力のある車のものだろう。
すわ重光の援軍か、と辺りを見回すが、自分たちの他に車影は無い。
否、違う。
この音は、民家の方から――
彼らが音の出所に気付いた時にはもう遅かった。
ドガンッ! と凄まじい音と共に、大型車がガレージを閉ざしていたシャッターを突き破り、路上へ躍り出た。
眩いライトで輪を描きながら旋回するそれは、ウィリス=オーバーランド社製。軍用車の代名詞。
すなわち。
「――ジープ、だぁ!?」
宇津木が驚愕の面持ちで叫んだ直後だった。
アクセルを全開にした鋼の塊はパトカーの脆弱なバリケードを難なく打ち破り、夜の車道を一直線に駆けていった。
☂
「大丈夫なんですか、こんなことして!」
エンジン音に掻き消されないように、有希は声を張り上げる。
「こうする以外に方法はねぇだろ」
ハンドルを握る重光に焦りの色は無い。むしろ、この状況を楽しんでいるように、彼の目は輝いていた。
駄目だ。早々に糾弾を諦めた有希は、質問を変えることにする。
「何処に向かっているんですか?」
「一先ずは、ここだ」
重光が懐から紙切れを取り出し、それを有希に放り投げる。
手に取ってみれば、それは名刺だった。「フリーライター 高倉明」と記されている。
「そいつなら警察の内部情報にも通じている。どうして俺に殺人容疑がかけられているかが分かるはずだ。昔からの付き合いだから、信頼もできる」
「そうなんですか……」
いまだに不安げな有希に、重光は笑みを浮かべて応える。
「心配するな。警察になんか捕まんねぇよ」
アクセルを踏み込む。
重厚な四輪車は、閑散とした道路を切り裂いて進む。