第十一話 決戦前夜
いくら重雄に立ち向かうと言っても、無策かつ裸一貫で乗り込む訳にはいかない。
そんなこんなで、重光と千鶴はなけなしの金で握り飯や惣菜パンをしこたま買い込んでからホテルの一室へ戻ってきた。財布の中身が随分と寂しくなってしまったが、どうせもう後が無いのだ。
最優先事項は体力の回復だ。
夜中に食べるのは些か気が引けたが、とりあえず握り飯を二つばかり腹に詰め込んでザッとシャワーを済ませる重光。
ついでにとばかりナンバープレートをちょちょいと偽装してから部屋に戻ると、
「あ、重光さん。おかえりなさい!」
バスローブ姿でほかほかしている千鶴がいた。
重光が外に出ている間に、こちらはこちらでシャワーを浴び直していたらしい。
無自覚なのか確信犯か。割と目の保養――もとい、目の毒な彼女がとてとて駆け寄ってくるのに合わせて、緩い着物のような服装があられもなく乱れる。
ちなみに、バスローブは厳密には服というよりもバスタオルに近いアイテムである。
さりげなく視線を逸らす重光に、しかし千鶴は目を輝かせながら迫る。自分の恰好のことなど微塵も気にしている様子はない。
「重光さん、重光さん! これ! こんなものがありました!」
千鶴が後ろ手に持っていた物を前に突き出す。
それは――
「……ゲーム?」
「はい!」
一世代前の携帯ゲーム機だった。黒いのと白いのが、それぞれ一つずつ。
ラブホテルにゲームやらカラオケやらが置いてあることは割と有名な話だが、それでもポータブルのものを置いてあるのは珍しい方だろう。
にぱー、という擬音が似合う表情で、千鶴が黒い方の機体を差し出してくる。
やれ、ということらしい。
「…………」
重光としては、今日のところはさっさと寝て、休養に努めたかったのだが……どうも許してくれそうにない。
溜息交じりに受け取る。
電源を点けると、既に入っていたソフトがシャカシャカと独特の音を立てる。
「通信プレイしましょうよ、通信プレイ!」
やかましい千鶴を横目に、重光はゲームを起動した。
「おりゃ! これでどうだ! って、まだ生きてる!?」
「……」
「ええい、死ねっ、死ね死ね死ねぇっ!」
「…………」
「ふぅ、やっと倒れた。……何ですかこれぇ。全部私の銃に合わない弾じゃないですがまったくもー! 重光さん、持って行ってください」
「………………」
CEROマークZ指定の、バリバリのギャングゲーだった。
画面の中では、千鶴が操るアバター(筋骨隆々の渋い白人のおっさん)が、手にした警棒で敵対勢力のNPCをごっすんごっすん勇ましく殴り殺していく。
それを死んだ目で眺めながら、重光は粛々と彼女の言に従う。
……というか、ついさっきまで自分たちはリアルに殺す殺されるの話をしていなかったか。
それはそれ、これはこれ、ということなのだろうか。
それより何より、重光の心をざわつかせるものがあった。
千鶴嬢、なんと胡坐をかいてゲームに興じてらっしゃるのだ。
女性としては大分はしたないのもあるが、それだけではない。当人は気づいていないようだが、バスローブという元来前が全開の衣装を着ている都合上、両足を横に広げて前に組むという姿勢はかなり際どいところまで布地がはだけてしまうのだ。
見えるか見えないかの瀬戸際。その限界を責める姿はまるで峠の挑戦者、チラリズムの申し子の称号を得るに相応しいと言っても過言は――
「ちょ、重光さん危ない」
有希の言葉に現実へ引き戻された。慌てて画面を覗き込む。
直後である。
千鶴の投げた手榴弾が眩い閃光とともに炸裂し、凄まじい爆風が重光の体を一切の遠慮容赦なく吹き飛ばした。
……無論、ゲームの話である。
「ああー……」
体力が一瞬にして消え去った重光のアバターを見ながら、千鶴が声を上げる。謝罪は無かった。
「ええい、もう一回! 次こそはノーダメクリアして――へっくち!」
「……そんな恰好で長時間いるからだ」
再びゲーム機を握りしめようとした千鶴がくしゃみをした。呆れ声とともに、彼女の頭に軽い拳骨をくれてやる。
結局、「えっへっへ……」と照れたような笑い声をあげる千鶴をベッドまで連れていくことに。
布団をかけてやって去ろうとすると、腕をがっしりと掴まれた。
「寝ろよ」
「重光さんも一緒じゃなきゃ嫌です」
よくそんなこと言えるなコイツ!? と目を剥いて驚いてしまったのが運の尽き。あれよあれよという間にベッドに引きずり込まれた。
近くにあったスイッチを千鶴の細く白い指が切った。
部屋の灯りが消え、窓から指す光だけが二人を照らす。
互いの息がかかりそうな程の至近距離。やや赤くなった頬で、微笑みながらこちらを見つめる彼女の姿は、淫靡を超えて芸術の域だ。
自然、重光の心臓が跳ね上がる。
「……誘ってんのか」
「今更気づいたんですか、鈍感さん」
なけなしのプライドで威嚇して見せるも、軽くいなされてしまう。可愛くないマセ娘だが、それ故にこの上なく愛おしい。
顔を寄せたのはどちらが先だったろうか。お互いの腕がお互いの首に絡みつく。
「後悔するぜ」
「させないように頑張ってください」
最後まで上手に返されてしまう。肝っ玉の据わった奴だ、と苦笑しながら、重光は千鶴に覆いかぶさった。
彼女の温かさを感じながら、静かに思う。
――どうにも、こいつには一生敵わなさそうだ。
☂
宇津木と蒼月が白烏拘置所に行った翌朝。
羽黒が窓から霜の降りた街を眺めていると、狭い室内にドアをノックする音が響いた。
時計に目を移せば、時刻はまだ六時半。冬の真っただ中の世間を思えば、余りにも早すぎる来客だ。
「はい」
返事をすると、意外な人物が入ってきた。宇津木である。
「すみません、事件のことで相談が……」
彼は申し訳なさそうに頭を下げる。
「少しだけ、お邪魔しても構いませんか?」
「そんなそんな……。どうぞ」
羽黒は椅子から立ち上がり、向かいのソファに座る様に促す。
「コーヒーでも淹れましょう」
言いながら、自分は備え付けの流しへ向かう。
「今日は鴇永検事はどうされたんす? 珍しくお一人のようですが」
片方の手で戸棚から瓶に入ったコーヒー豆を取り出し、もう片方では水の入ったヤカンをコンロにかけながら、そう尋ねてみる。
宇津木は、苦笑しながら、
「検事なら仮眠室です。連日の激務でしたからね」
「……そうですか」
羽黒はもう一度戸棚に手を伸ばすと、コーヒーカップを一つだけ取り出した。
「あの、宇津木警部補」
「なんでしょう?」
「この戸棚に入っていたコーヒー豆、ひょっとして仁科縁里からの贈り物ですか?」
問い掛けに、宇津木は一瞬きょとんとした。が、すぐに何かを思い出した様子で頷く。
「え、ああ。そうです。私の誕生日に彼女がくれたものですけれど……どうしてそれを?」
「メッセージカードが付いたままだったので」
「ああ、そうでしたか。でも、それが何か?」
「いえ、なんでも」
首を傾げる宇津木の目の前で、羽黒は挽いた豆の粉末を漏斗に入れ、上から湧いたばかりの湯を注ぐ。丁寧に。一滴たりとも溢さぬ様に――。
「手慣れてますなぁ」
「趣味でして」
賞賛の言葉を送ってくる宇津木に淡々と返しながら、今度はコーヒーポットからカップへと、中身を移す。
「どうぞ」
「や、ありがとうございます。……おや、羽黒さんは飲まないのですか」
「私は結構。それから、急ぎのメールが来たようなので、少し失礼します。五分ほどで済ませますので」
宇津木の訝し気な質問を軽くあしらって、そそくさと室外に出る。
羽黒は、廊下に出てすぐに――ドアへ耳を押し当てて、中の様子を窺った。
少し間があってから、中から、何か重いものが倒れるような音がする。
――口の端が吊り上がるのを感じた。
こんなにも――こんなにも上手くいくとは。やはり脅威だったのは検事だけだったようだ。念を入れて警部補もリストに入れていたのだが、杞憂に終わったか。
「さようなら、愚昧な刑事さん」
思わず、口の中でそんなことを呟いてしまうあたり、自分も少々舞い上がってしまっているらしい。
低い笑い声を隠し切れないながらも室内へ戻れば、宇津木はソファの横で倒れていた。周囲には、カップの中にあった黒い液体が水溜まりを作っている。
(事前に仕込んでおいた毒が、上手く効いてくれたようだな)
そんなことを思いながら、流し台へ近づく。
後は瓶に同じものを混ぜておけば――
「そこまでですよ、羽黒検死官――いえ、羽黒紅雪」
不意に、背後から声。
驚きながら振り返ると、そこには蒼月が立っていた。
「ポケットから取り出そうとしたものをこちらに渡しなさい」
鋭い光を湛えた目で命じる彼の背後では、宇津木も立ち上がっていた。
ぬかった。
こいつら、自分を試しやがった……ッ!?
「あなたは、昨夜私に詰問されて、何らかの形で自分の秘密がバレたとでも思ったのでしょうね」
嫌な汗を全身に感じる羽黒に、蒼月は極めて冷徹に言葉を投げかけ続ける。
「それが仁科縁里が何かを喋ったのか、それともまた別の理由か……どちらにせよ、感付かれたならば何としても口を封じなければならない。そう考えたあなたは一計を案じたのでしょう」
「――それが、仁科の贈り物のコーヒーを使ったトリック」
続きは宇津木が引き継いだ。
「瓶の中に毒物を混入しておけば、最初から仁科が何かを仕込んでいたと思わせることができると思ったか。動機が足りないが、それも後から証拠を作って上手く偽装するつもりだったんだろう」
ゆらりと宇津木が羽黒へと詰め寄る。
その手の中には既に、鈍色に輝く手錠が握られていた。
最後の抵抗に身をよじって逃げようとするも、素早く伸びた刑事の手がそれを許さない。
「覚悟しとけ。俺の尋問はぶっちぎりでキツイぞ」
手首に手錠をかけられた羽黒の顔を、殺気に満ち満ちた宇津木の瞳が射貫く。
その憤怒の理由は、決して自分を殺されかけたからなどというものではなかった。